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03: 神 奈 川 宿

2011.9.16   2012.3.31










































































































































































































































































神奈川宿のスタートは、京急・神奈川新町駅で、旧東海道を、京急の線路沿いに、
仲木戸駅、神奈川駅と進みます。


・良泉寺



 幕末には、神奈川宿の寺々は、幕府の命により、諸外国の公館として提供
させられました。

 良泉寺の説明板によると、外国の領事館に充てられることを潔しとしない住職は、
わざわざ本堂の屋根を剥がして、修理中を口実に、幕府の命令を断った、と
あります。



・東海道分間延絵図



 写真は、神奈川小学校の塀です。



 「東海道分間延絵図」の神奈川宿の部分が拡大されたタイル絵が埋め込まれて
います。



・浦島寺(慶運寺)





(写真は、浦島寺にある竜宮城の亀)

 慶運寺は、開港当時は、フランス領事館にあてられました。

 慶運寺は、浦島寺と呼ばれ、
浦島太郎が、竜宮城に行ったとき、乙姫様から貰ったという菩薩像が保管されているそうです。

 う~ん! ホントかな~?

 乙姫様と菩薩像の組み合わせって、何となくしっくりこないな~・・・

 (浦島太郎の墓については、2011.9.15「東海道を歩く(川崎宿)」を見てね。)



”神奈川宿と言えば、浦島太郎?”

神奈川宿には、下の5枚の写真の様に、浦島太郎伝説をデザインした施設が至る所に点在しています。



(亀をかたどった車止め)



(青海波(せいかいは)をデザインした歩道)





(道路灯の上の亀と青海波)



(竜宮橋)



・横浜市神奈川地区センター





 地区センターには、神奈川宿の書籍コーナーがあり、「神奈川宿古文書の会」の
皆さんが古文書を解読して作成した上の写真の膨大なファイルもあり、一度、じっくりと読んでみたいです。

 また、1階ロビーの
「神奈川宿復元模型」は見事で、神奈川宿の全体感が
感覚的に理解できる優れ物です!!



 上の復元模型は、赤線が旧東海道、
赤丸印がJR横浜駅です。

 江戸時代は
横浜駅は完全に海の中ですよね!!



 上の復元模型は、赤線が旧東海道、
赤丸印がJR東神奈川駅、赤四角印が
浦島小学校(
浦島太郎の生家のあった場所?)です。



・高札場(復元)



 神奈川宿の真ん中を流れる滝の川の橋のたもとにあったのを、資料をもとに、
ここ神奈川地区センターの前に復元したものです。



 遠く静岡や三重まで出掛けて行って、高札場を見て、有難がって感動していましたが、自分の住んでいるところに、こんなに立派な、しかも実物大の高札場があった
なんて、全く知りませんでした!

 いやはや、灯台もと暗しです・・・



 高札場の前の通りには、写真の様に、新しい松並木が復元されています。



・本陣跡



 宿場町の中ほどを流れる滝の川を渡ると、滝の橋の近くに本陣跡の説明板が
あります。





・神奈川台場

 本陣跡から、国道15号を向こう側に渡り、海側へ向かって歩きます。





 
勝海舟が設計した神奈川台場は、写真の様に、その石垣の一部が、民家の脇に、ひっそりと残っていました。



 上の写真は、神奈川地区センターの神奈川宿復元模型の
神奈川台場で、赤線が旧東海道です。



・神奈川台場資料館



 海岸の真新しい高層マンション群の中にある星野町公園の脇に、神奈川台場の碑があり、その横のマンションの1階に神奈川台場資料館がありました。
(100円)





 営業時間帯に行ったのですが、何故か閉まっていました。



・宮前商店街



 旧東海道は、上の写真の左側の国道15号から外れて、右側の宮前商店街へと入ってゆきます。


・須崎大神





 須崎大神は、源頼朝の創建で、
江戸時代はこの神社の前が、もう海で、小舟の
荷揚げ場だったそうです。




・京急・神奈川駅





 現在は何も無いところですが、往時は、この神奈川駅の辺りが、神奈川宿の中心でした。
 つまり、ここが、
神奈川県の県名の由来となった場所です。

京急神奈川駅は小さな駅なのに、なぜ県の名前を付けているのだろう、と以前から不思議に思っていました。

駅前の説明板に、
江戸時代には、この辺りが神奈川宿の中心で、非常に賑わった
とあります。

なるほど!

京急の駅名の付け方は正しいんだ!

この神奈川駅の東にあるから、JRは東神奈川駅なんですね!

でも、今はその神奈川宿の本陣の痕跡すら残っていないそうです。


神奈川駅の横の青木橋を渡ります。

橋の下は東海道線です。

青木橋を渡ると、アメリカ領事館のあった本覚寺です。

京浜東北線の車窓から良く見える、写真の本覚寺には、石段を登ると、アメリカ
領事館
の石碑があります。





当時、米国大使は、この高台の本覚寺から、現在の横浜駅周辺の埋め立てが、
横浜開港に間に合うか否か、
埋め立て状況を監視していたそうです。

また、
本覚寺は、生麦事件で負傷したイギリス人が逃げ込んだお寺でもあります。

開港当時、神奈川宿のお寺の多くは、各国公館や宣教師の宿泊施設になって
いたそうです。

これは、一般の家は天井が低く、背の高い外国人に不向きだったので、天井の
高いお寺が好まれたのだとか・・・








神奈川駅の横の青木橋を渡り、本覚寺を過ぎると、地区センターの「神奈川宿復元模型」にあった様に、ここから、旧東海道は、上り坂になり、神奈川台に入ります。

この上り坂の左側に、下の写真の
割烹田中屋があります。



坂本龍馬の妻のおりょうが働いていた店として有名です。

未だ江戸時代の店が残っているんですね!!

すごい!

写真の様に、店の門の右側に立て看板があり、おりょうについて以下の様に
書いてありました。

”おりょうが、田中屋で働き始めたのは明治7年。

勝海舟の紹介で働いていました。

英語が話せたので外国人の接待に重宝されました。”

凄いな~!

おりょうさんは英語が話せたんだ!



・東海道中膝栗毛の説明板





 割烹田中屋の前に、上の写真の十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の説明板が
あり、次の一節が書かれています。



 ”ここは、方側に茶屋軒を並べ、いずれも座敷二階造、欄干付きの廊下桟
(かけはし)等渡して、浪打ち際の景色いたって良し。

 「おやすみなさいァせ」と茶屋女の声に引かれ、二人は、ぶらりと立ち寄り、
鯵(あじ)をさかなに一杯ひっかける。”、
 と説明版に書いてあります。


 この話しの結末を知りたくなり、帰宅してから、「東海道中膝栗毛」を読み直してみます。
東海道中膝栗毛 (21世紀によむ日本の古典 18)
谷 真介
ポプラ社


 川崎宿で、二人の馬方に、”お客を乗せた帰り道だから安くするよ”と声を掛けられた弥次さん喜多さんは、川崎宿から神奈川宿の間は馬で行くことにします。

 二人は、のどかな海沿いの神奈川宿の風景を、馬の高い背から眺めながら、
神奈川宿まで、満足げにのんびりと揺られてゆきます。

 神奈川宿は、波打ち際に茶店が並び、どの店も2階に座敷や桟敷(見物席)が
あって、素晴らしい海の眺めです。

 茶店の一軒に、美人の看板娘を見つけた二人は、嬉しそうにして、その「金川の台の茶屋」に入り、酒と焼き魚を注文します。

 弥次さんは、”おまえの焼いた魚だから美味いだろうね”と、看板娘にちょっかいを出そうとしますが、娘は、ふんと鼻の先で笑って、他の客引きをするために、店の外へ出掛けてしまいます。

 当てが外れた弥次さんは拍子抜けして一句。

   ”美味そうに 見ゆる娘に 油断すな 
    きゃつが焼いたる 味(あじ)の悪さに”

(”味”と魚の”鯵(あじ)”をかけた語呂合わせです。)



・神奈川台関門跡



 更に急な坂を登ると、神奈川台関門跡の碑があります。

 この関門は、幕末に、外国人を保護するために設けられたのだそうです。




浮世絵で見ると、現在の横浜の繁華街は、 な、何と!

左手の海の中です!!



バスの旅では、旧街道から、写真の非常に急な崖を降りて、当時、海だった横浜駅西口へ向かいます。







再び 東海道を歩く(神奈川宿:田中屋)  2014.7.11




(写真は、田中屋の集合写真に収まる龍馬の妻おりょう)

今回は、京急神奈川駅で下車して、旧東海道を歩きます。



旧東海道は、すぐに上り坂となり、神奈川台に入ります。

この上り坂の左側に、本日の目的地である文久年間創業(150余年)、横浜最古の料亭「田中屋」があります。





東海道踏破の途中で、この田中屋の前を通った際に、後日必ずここに食事に来ようと
思いました。
そして、その想いが、ようやく実現しました!

(この時の様子については、2011.9.16「東海道を歩く・神奈川宿」を見てね。)



安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿・台之景」の中に描かれている「さくらや」が
「田中家」の前身です。

写真の浮世絵では、坂の上から3軒目に、田中家の前身「さくらや」の看板が見えます。

中央の大きな船がいる辺りが現在の横浜駅です。

田中家の玄関を入ると、直系の5代目女将が三味線で迎えてくれます。

三味線の音につられて、気分がウキウキしてきます!

6代目若女将が二階のお座敷に、にこやかに案内してくれます。

猛暑の中、冷房の効いた和室で、ビールと冷酒を飲みながら、会席料理を頂きます。





(坪入り、素麺かぼちゃ、赤芽、そば汁、新蓮根酢、蓮芋、鳥貝、黄身酢、鬼トマト、お多福豆、
 玉ねぎとベーコンの蒲鉾)



(蟹寄せ豆腐、ブロッコリーの芽、椎茸、小メロン)



(キュウリの葉盛り、鮪、間八、ホタテ貝、彩り一式、横浜醤油)



(銀鱈婚昆布汐焼き、矢生姜、鮪松風焼き)



(海老黄身煮、里芋含め煮、信田巻き旨煮、冬瓜含め煮、隠元)



(ちりめん山椒と枝豆の炊き込みご飯、香の物、赤出し味噌、豆腐、滑子、葱)

そして、最後は、メロンと巨峰のデザートで締めです。

食後には、5代目女将が、田中家の歴史を、当家の地下から発見されたという貴重な資料を
スライドにして紹介してくれます。



スライドでは、幕末の横浜駅周辺、更に戦前・戦後の田中家周辺の貴重な写真がゾクゾクと
出てきます!



スライドによると、全盛時は、田中屋には600人の芸者がおり、横浜踊りを踊ったとのこと。

スライドを解説してくれる女将の話し方にリアリティと迫力があり、幕末から明治・大正・昭和初期
までの田中屋の情景が目に浮かんで来ます。

特に、龍馬亡きあと、龍馬の妻・おりょうが、ここに住み込みで働いていた頃のエピソードに
なると、女将の説明に熱がこもります!

おりょうは、勝海舟の紹介で、田中家へ来ましたが、プライドが高く、周りの使用人とは
うまくいかなかったそうです。



気の強かったおりょうは、下の田中家の集合写真を撮るときも、仲居の身分にもかかわらず、
仲居の白い掛け襟スタイルを拒否して、誰よりも前に納まったそうです。



でも、長崎グラバー邸のグラバーから英語を教わり、ペラペラに喋れるまでに上達していたので、外国人の接待に重宝され、ひいきの客も多かったそうです。



おりょうは、金持ちのお客に見染められて結婚しましたが、それでも、龍馬の妻としての
プライドを持ち続けたと言われています。

更に、龍馬がおりょう宛てに書いたという貴重なラブレターの本物(※)も、階段の途中の
赤丸印の所に無造作に?展示されています!



※”すぐに長崎へ、象二郎と一緒に帰るので、その時は必ずお龍さんのいる下関に少しでも
  寄りますね。待っていておくれ。”

また、田中家を訪れた幕末の志士、著名人、外国からの要人をもてなしたエピソード話しで、
座は盛り上がります。

5代目女将が、田中屋を引き継いだときは、倒産寸前で、200畳の大広間を利用する客は
ほとんど無く、近所からは幽霊屋敷と呼ばれたそうです。





(上の写真が昔の田中屋の全景で、赤丸印が現在の縮小された田中屋)

マンションの地上げ屋にも負けず、江戸時代から続く田中家を潰さない様にと、一生懸命
支えてきた意気込を感じます。





店内は、いたるところに歴史を感じる写真が飾られ、どれも一見の価値あります。

二階へ上がる階段の途中には、龍馬のラブレターの他にも、伊藤博文や高杉晋作、夏目漱石
や川端康成など、田中家に投宿した多数の著名人の写真が、所狭しと展示してあります。



(写真中央は川端康成)

帰りも、大女将が三味線の演奏でお見送りです。

和食と横浜の幕末の歴史に触れた半日を堪能しました!

下の写真は、田中屋の横の階段の下から田中屋(赤丸印)を撮ったものですが、この階段を
下りて、真っ直ぐに5分位行くと、当時は海の中だった横浜駅です。



当時は、この階段は海沿いの崖だったので、田中屋の窓からは千葉の海岸を眺望出来、
欄干からは釣り糸を垂らしたそうです。



上の写真は、海側から見た昭和初期の旧東海道の全景で、赤矢印の下が田中屋です。

[横濱倶楽部・おいしい横濱めぐり:各回定員40名]
 
6,300円(11:15~1:30)

神奈川宿のガイドマップ、横浜醤油などのお土産付き


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