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38:岡崎宿


2011.12.30   2012.11.3

旧東海道沿いの大平一里塚から、少し
右に入ると、写真の
大岡越前守の
屋敷跡
があります。

桜吹雪の刺青”で有名な”遠山の
金さん

の江戸・
北町奉行に対し、
大岡越前守は、”大岡裁き”で有名な
江戸・
南町奉行です。

しかし、大岡越前守の屋敷が、江戸で
はなく、
何故、こんな所に?

もともと
紀州藩士であった大岡越前守
忠相は、
紀州藩主・吉宗が将軍になった
のに伴って、江戸へ行き旗本となります。

南町奉行として手腕をふるい、
吉宗を
支えた功績
により、72歳の時に1万石の
大名
となり、ここ三河国の西大平藩の
藩主
となったそうです。

ふ〜ん、そういう事か!

屋敷跡は、写真の門と塀のみで、塀の
中は公園になっています。



岡崎は、徳川家康の生誕地
です。

市の西には、矢作(やはぎ)川が流れて
いるので、岡崎は、城下町、宿場町、湊町
として発展しました。

現在の伝馬町が岡崎宿の中心ですが、
岡崎は戦災を受け、往時の面影を残す
建物はほとんど残っていません。

本陣跡や問屋場跡に標柱がある程度で、
遺構らしきものは何も残っていません。


岡崎宿城の入口には、右の写真の
防衛のために形成された道の
二十七曲り”と呼ばれる枡形
(ますがた)についての表示柱があり
ました。

表示柱は、曲がりくねった地図の表示
ではなくて、次の曲がり角までの
メートル数が次々に書かれていて、
これをたどれば良いようになっています。

枡形(ますがた)は、城下町や宿場町の
出入口にあり、
敵が真っ直ぐに進めない
様に、わざと道を左右にずらした
ものです。


1590年に岡崎城に入城した田中吉政は、10年かけて城下町を整備し、防衛のため
に街道を27か所も屈折させる「二十七曲り」を作りました。

岡崎宿の町中に入ると、右の写真の
冠木門
があり、ここが二十七曲りの
スタート地点です。




繁華街の中心にある岡崎公園の中の岡崎城へ向かいます。


徳川家康が生まれ育った
岡崎城は、
天守閣が再現されています。

岡崎城の天守閣(200円)の2〜4階は
資料館です。

徳川家康は、岡崎城の城内で生まれ
ましたが、以降、織田信秀、更には
今川義元の人質として他国で過ごしました。

しかし、今川義元が桶狭間の合戦で
戦死したことにより、19歳で人質から
解放され、以来、ここ岡崎城を拠点に
天下統一の基礎を固めました。


下の写真は、家康誕生の時の”えな
(胎盤)を埋めた”「えな塚」と、家康が
産湯に使用した井戸水の「産湯の井戸」

です。


 えな塚


 産湯の井戸

下の写真は、
家康の人形が能を舞う
からくり時計塔」です。







1782年創業の
備前屋では、岡崎名物の
下の写真の「
あわ雪」(525円)を売って
います。






   大岡越前守の屋敷跡







(岡崎信用金庫)









   二十七曲りの表示柱





    冠木門






(岡崎城の天守閣)














岡崎城では、コスプレ大会が開催されていて、写真の様にアニメ衣装を着た若者で大賑わいでした。



岡崎城内に、八丁味噌蔵への案内板が
出ていたので、これに従い、岡崎城の
綺麗な石垣のお堀端を抜けて、八丁味噌
の里の味噌蔵へ向かいます。

右下の写真の様な
八丁味噌蔵
並んでいました。

岡崎城から八丁(870m)の距離なので
この名前が付いたそうです。

江戸時代から続く「カクキュー八丁味噌」
の蔵と工場を見に行きます。



ここの味噌蔵を舞台にしたNHK朝の連続
ドラマの
「純情きらり」の宮崎あおい等の
手形の碑が点在していました。



八丁味噌は、丸大豆と塩のみを使い、
3年間じっくりと熟成させて造るので、
長期間保存が利き、寒暖にも変質せず
携帯にも便利なことから重宝されたそうです。

徳川家康もこの八丁味噌を焼いて食べる
のを好んだそうです。


お昼は、
味噌カツ丼(900円)を食べます。


東京のカツ丼を食べ慣れていると、タレが
少ししつこく感じます。

文化の違いでしょうか。


浮世絵は、矢作川(やはぎがわ)の西岸
から、
対岸の岡崎城を臨む図です。


橋を渡るのは大名行列です。


バス旅行の時のお昼御飯は、市の中心部
からバスで約15分の
真福寺の竹膳料理
でした。

写真の様に、タケノコの刺身、てんぷら、
田楽、煮つけ、酢の物、吸い物と
タケノコ
ずくしのフルコース
です。

その上、お膳、器、箸なども全てが竹細工
と徹底しています。

タケノコは柔らかくて食べやすく、大満足!




(八丁味噌蔵)





























岡崎宿を抜けると、
矢作川橋跡
ありました。

岡崎城の西を流れる矢作(やはぎ)川は、当時、水路による物資輸送で、重要な
役割を果たしていたそうです。

旧矢作川橋は、長さ374メートルと、
東海道で一番長い橋だったそうです。

広重も”岡崎城と矢作川”を描いています。

矢作川橋は、日吉丸(豊臣秀吉)が
蜂須賀小六に出会った橋
として有名です。

豊臣秀吉は、蜂須賀小六のお陰で、
一夜城を築け、とんとん拍子の出世

します。

そう言えば、土産に買った
八丁味噌にも、橋の上での二人の出会いの図
描かれていました。

(源義経と弁慶の出会いの図では
ありませんよ。念のため・・・)


次の知立宿を目指します。


旧東海道は、やがて国道一号と合流、
トラックの排気ガスを我慢しながら、
約3キロをひたすら歩くと、名鉄宇頭駅の
先で、国道一号から離れ、再び松並木
が点在する旧東海道へ入ります。




2キロほど進むと、旧東海道の右手に
雲竜の松」で有名な永安寺があり
ました。

境内の黒松「雲竜の松」幹が、地を
這う様に四方に伸びています。

うねる様にしてして横へと伸びた枝は、
まるで、複数の竜が天に昇るという感じで、力強い屏風絵を見る様な迫力があります。

う〜ん!

まるで
生き物の様な見事な松です!








永安寺を出ると、直ぐに、衣浦豊田道路
の陸橋があり、これを超えると、道の
所々に松並木が点在する様になります。




ここから数キロ行くと、道の左右両側に
一里塚が残っている
来迎寺一里塚があり、左右両側に残っているのは珍しいケース
だそうです。




更に、1キロ程進むと、もう次の知立宿の
入口である知立の松並木が見えます。


岡崎宿から知立宿までは、約15キロと、
かなりの長丁場です。


矢作川橋























37-2:藤川 へ

39: 知立 へ
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