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41:宮宿


2011.12.31     2011.11.4
鳴海宿から、足を引きずりながら約7キロ、ようやく名古屋の市街地に入った感じで、東海道の両側には中小のビルが続きます。


JRの踏切を渡り、名鉄のガードをくぐると、
宮宿(みやしゅく)の入口である伝馬町商店街に着きました。


でも、
裁断橋跡などの史跡の立て札が点在するだけで、宿場町の面影は残っていません。


宮宿の”宮”は”神社”を意味しますが、ここでの宮は熱田神宮です。

”宮”の地名は全国にあり、例えば、
埼玉県の大宮の””は氷川神社を意味します。


宮宿は、江戸時代には、「
七里の渡し」として、次の桑名宿への海上航路の玄関口であると共に、熱田神宮の門前町として、旅籠248軒と、桁違いの規模の宿場町だったそうです。


「七里の渡し」跡がある「
宮の渡し公園」に向かいます。

しかし、いくら注意して歩いても、「七里の渡し」や「宮の渡し公園」の表示が全くありません・・・

右腰の筋肉の痛みと腰痛の再発で、間違った道を戻る元気はありません!

祈る様な気持で、表示を探しましすが、見当たりません!

参ったな〜!

道を間違えたかな・・・

高い場所から見回してみよう、と陸橋に登ってみます。

何と!その陸橋を向こう側に降りたところが宮の渡し公園でした!

「宮の渡し公園」には、船の出入りの目印となった、上の写真の右側の「
常夜灯」や、写真の左側の「時の鐘」などが復元され、往時が偲ばれます。




時の鐘は、出航時刻を告げ、常夜灯は、灯を灯すことで、逆に渡船禁止の時間帶を示したそうです。

下の浮世絵の右側中央が、この常夜灯です。



(浮世絵の常夜灯部分の拡大)




(時の鐘)


道路を挟んで時の鐘の前にある、下の写真の
丹羽家住宅は、「尾張名所図会・七里渡し船着」に描かれている脇本陣の旅籠「伊勢久」で、正面左に見える破風(はふ)の付いた玄関が格式の高さを示しているそうです。































東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんは、宮宿の鍵屋という旅籠に泊まります。

弥次さんが、宿の主に、”船で桑名に渡るのはいいが、船から小便するのが怖くてな。”
と相談すると、
主が、”そういう方には、
切った竹の筒を差し上げています。”と答えます。

翌朝、
桑名に渡る船の中で尿意をもよおした弥次さんは、早速、周りの人に気付かれない様に、こっそりと竹筒を取り出します。

本来、この
竹筒の使用法は、船べりから竹筒を海に突き出して、火吹き竹の様に、先に開けてある小さな穴から海へ流すためのものです。

ところが、この竹筒を
携帯トイレと勘違いした弥次さんは、竹筒の先の小さな穴に気がつかず、座ったまま用を足してしまいます。

(でも、1/12のNHK「ぶらタモリ」では、江戸の隅田川では、竹筒を携帯トイレとして使用していたそうですから、弥次さんが間違えたのも仕方なかったのかも?・・・)

たちまち、
船床は水?びたしになり、船の中は、大騒ぎになります。

竹筒を持ったまま、まごまごしている弥次さんは、
船頭に、
”誰だ!小便をしたのは!
船の神様が汚れる!
早く小便を拭いて!


まくしたてられた弥次さんは、ふんどしを脱いで、床を拭き始めます。








現在は、海上の「七里の渡し」がないので、東海道を歩く人の間では、神宮前駅から桑名駅までは、電車に乗ることが”慣例”になっているそうです。

私もこの慣例に従うことにします。


七里の渡しから歩いて10分位の
熱田神宮へ、足を引きずりながら寄り道をします。

熱田神宮には、三種の神器の一つの
草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)が祀られています。

また、熱田神宮は、
織田信長が、桶狭間の戦いに出陣する際に、戦勝祈願をした神宮でもあります。

桶狭間の戦いに大勝した信長が、戦勝のお礼に奉納した瓦ぶきの塀が残っています。

下の
浮世絵は、熱田神宮の神事を描いたもので、右端が、神宮の鳥居で、お祭りの男達が着ている赤と青の半纏(はんてん)は、有松絞り(「40-1:有松宿」をご参照下さい。)だそうです。


熱田神宮の前の
名鉄・神宮前駅から電車に乗り、岡崎を経由して豊橋へ向います。


その後、豊橋でJRに乗り換えて、何とか横浜に戻りました。








熱田神宮



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42:  桑名 へ
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