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45:庄野


2012.1.8   2012.12.8

庄野宿は、安藤広重が描く「
庄野の白雨(はくう)」でよく知られています。

白雨とは、昼間の夕立のことで、雨宿りの場所を探して走っている旅人が描かれた、激しい夕立を見事に表現しています。


庄野宿は、住所でいうと、
鈴鹿市庄野町です。

車の通行もなく、写真の様に静かな通りで、散策には快適です。

庄野は、格子窓の民家が点在し、少し寂しい感じだけど落ち着いた町です。












 (庄野宿の町並み)






江戸時代は油屋であった旧小林家庄野宿場資料館として公開されています。

庄野町に残る膨大な宿場町関連の資料の活用を図り、併せて旧小林家の保存を進めるため主屋の一部を創建当時の姿に復元し、平成10年に開館したそうです。


館内には、庄野宿の本陣模型、脇本陣文書、宿駅の関係資料をはじめ、地域の農具などを展示しています。


他に観光客も無く、上品なおばさまが、丁寧に説明してくれましたので、ついつい長話をしてしまいました。

その説明によると、
庄野宿は小さな宿場町でしたが、往時の面影を残しています。

戦災を免れたため、江戸時代のままの町割りで、道幅が少し広がった程度で、他は何も変わっていないそうです。

庄野町役場には、戦災を免れた千数百点もの膨大な庄野宿に関する資料が保存されているそうです。


そして、この菜種油の商人だった
小林家の周辺は、昔は、菜の花の畑だったそうです。


庄野は、東海道でも遅くに出来た宿場町で、もともと貧しい土地柄だったこともあり、江戸時代は、この宿場町を素通りする旅人が多く、宿場町の経営は大変だったそうです。



庄野の宿場の江戸時代の
名物は、右の写真の小さな「米俵に詰められた焼き米」だったそうです。

そのまま”ポリポリ”と食べることができ、また、お湯を注いで食べることもでき、現代で言うと、
インスタント食品・保存食です。

焼き米の製法は、米を籾(もみ)のまま煎り上げ、これを押しつぶした後で、籾殻を除いたそうです。

右下の写真は、資料館に展示されている「焼米」を包む米俵を編む器具です。



"ウ〜 〜 〜 〜ゥ!"

おばさまの説明中に、突如、
町中に鳴り響くサイレンの音が!!

緊急事態発生?

津波??

”驚かないで! 11時のサイレンなんですよ。”

え〜っ!、時報だったら、何か音楽のメロディでも流したら?

都会に住んでいる人間は驚きますよ・・

知らない土地では、時々、予想出来ない事が起きます。

ホント・・・


右の写真の高札は、撮影禁止なのですが、特別に、フラッシュをたかないという条件で、おばさまの許可を得て撮影したものです。

巨大な
檜の一枚板の江戸時代の高札の現物です。

写真の様に、
黒い文字が浮き上がって見えるので、字を彫ってある様に思いました。

しかし、おばさまの説明によると、昔の高級な墨は、ニカワを混ぜてあるので、
文字の部分だけが風化せずに、綺麗に残っているのだそうです!

すごいですね!





資料館を出て、旧東海道沿いの本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡、会所跡、高札場跡などを見てから、庄野宿を抜けて亀山宿へ向かいます。



(問屋場跡)





庄野宿には、三つの川俣神社があります。
下の写真の宿外れの二つ目の川俣神社にあるスダジイは、樹齢数百年の巨木です。





「庄野宿」石碑が立っていますが、ここが宿場の出口になります。




旧小林家)





(本陣の模型)












(会所跡)


(高札場跡)










右の写真の「従是東神戸領」(これよりひがしかんべりょう)の碑、中富田一里塚、川俣神社を過ぎ、JR井田川駅に着きました。


今日の目標は、亀山宿ですが、今晩中に横浜に帰りつくには、そろそろ戻らないといけません・・・

JR関西線・井田川駅から、名古屋で東海道線に乗り換え、豊橋浜松、興津、沼津、熱海と乗り継いで横浜へ戻ります。


庄野宿から亀山宿まで約8キロです。

(但し、庄野宿から井田川駅までは約3キロです。
)
(「従是東神戸領」の碑)


(中富田一里塚




(三つ目の川俣神社)


44:石薬師 へ

46:亀山 へ
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