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52:草津宿


2012.3.12   2012.12.8
宿泊している草津のビジネスホテルの前の辺りが、草津宿のスタート地点です。

それで、今朝はゆっくりと宿を出ます。


草津宿の名物は、右の写真の創業以来430年の「
姥が餅」(うばがもち)です。

織田信長に滅ぼされた六角家の曾孫を、密かに育てていた乳母(うば)が、生活のために草津で餅を売ったのが始まりだそうです。

でも、織田信長の残党狩りは厳しかったので、餅を売っていた乳母は命がけだったらしいです。

少しづつ形が違い、白アンのトッピングで、きゅうひを厚めのアンが取り囲んでいます。

贅沢にアンコ玉を食べている感じで、すごく美味しいです。

6個をペロリと食べてしましました。

右の写真の「姥が餅屋」は、国道1号沿いに、姥が餅屋と、和菓子屋と、そば屋を併設して営業しています。

(「姥が餅屋」の看板)




草津宿は、東海道と中山道の分岐点として栄えたそうです。

右上の写真の左手が中山道、手前の右手が東海道です。

従って、草津宿からゴールの三条大橋までは、東海道と中山道は共通の道です。

草津宿の
追分道標は、右の写真から読みとれる様に、「左 中山道みのぢ(美濃路)、右 東海道いせみち(伊勢道)」とあります。




右下の写真の
草津宿本陣は、ビジネスホテルの前の旧草津川(天井川)の川底のトンネルを抜けた所にありました。

草津宿本陣は、東海道では
江戸時代のままで残っている唯一の本陣です。

玄関広間、上段の間、湯殿、台所土間など、当時のままです。

1,300坪の敷地に、470坪の建物という広大な旅籠です。

昭和24年に国から史跡として指定されるまで、本陣職の田中家が、江戸時代のままの本陣の建物を維持していたそうです。

大名・公家の宿泊鑑札や、
皇女和宮などの宿泊時の大福帳などが保存されています。

本陣内は、撮影禁止なので、右下の写真は本陣で売っているガイド本の中に掲載されている
大福帳です。

大福帳には、
土方歳三の名前が見えます。

本来、本陣は大名の宿泊施設なので、新撰組なんぞは泊まれないハズですが・・・

でも館内の説明書によると、幕末で幕府の統制が緩んでいたのと、当時は新撰組の絶頂期で金払いが良く、本陣にしてみれば大切なお客だったから、とありました。



館内の説明書には、もう一つ、面白い話が書いてありました。

それは、
宮崎・佐土原藩のお殿様が、草津宿本陣で、宿泊中に急死した事件についてです。

佐土原藩は、未だ、後継ぎの届出を幕府に提出していなかったので、
突然死が明るみになれば、お家断絶になります。

そこで、国元へ急飛脚を出し、幕府の世継ぎ許可を得ようとします。

また江戸にも急飛脚を出し、
病気のため草津宿にて療養中、と幕府に報告したそうです。

国元に急飛脚が着いたのが2週間後、幕府の許可がおりたのが、それから更に50日後でした。

その間、草津宿には、
大勢の病気見舞いの方々が次々に押し寄せたそうです。

もし、突然死の情報が本陣側からも漏れたら、本陣職は即刻打ち首となるため、この間、次々に押し寄せる見舞客の対応、宿泊予定の大勢の大名の予約キャンセル等、必死だったそうです。


それからもう一つ、バス旅行の際の説明の人の話しで、面白い話がありましたので、それについても以下にご紹介します。

最近、本陣の解体修理を行ったところ、
屋根裏に、大量の”カラタチのトゲ”が、バラまかれているのが発見されたそうです。

これは、歴史的にも予想外の発見だったそうです。

忍者が屋根裏に潜むのを防ぐためだった、とのこと。

面白い!!


上段の間の説明では、用心深いお殿様は、ふとんの下の床に鉄板を敷いて寝ていたそうです。

これは、床下からだと、刀の刃が、床、畳、ふとんを貫いて身体まで達するからだそうです。

安全なお城と違って、お殿様は、旅の途中は、命を狙われる危険があったんですね。

殺されたら、下手するとお家断絶ですものねえ・・・



また、
風呂場では、屋外で沸かしたお湯を、湯殿に運び入れて使用していたそうです。

宿にある
五右衛門風呂は、ヤケドをする危険があったため、お殿様の入浴は禁止だったそうです。

ちなみに、
お殿様は、薄い着物を着て風呂に入っていたそうです。

なぜでしょう?

それは、万一、
何者かに襲われた場合に、殿様たるもの、裸で逃げ出す訳にはいかない、からだそうです。

なるほどね〜!


本陣の裏には、その本陣職だった田中七佐衛門の子孫の人達が今も住んでいるそうです。



















(草津宿本陣)



(大福帳:「草津宿本陣」発行のガイドブック)







(草津宿の町並み)






(上段の間:「草津宿本陣」発行のガイドブックより)




(湯殿:「草津宿本陣」発行のガイドブックより)





また、本陣の近くには、写真右の草津宿街道交流館があり、展示されている旅籠の食事のディスプレイや、下の写真の問屋場の立体ビジョン画面が面白いです。
(200円)



下の写真は旅籠の食事で、
右側が夕食左側が朝食です。



本陣を出て、商店街となっている旧街道を進みます。



商店街を抜けて、住宅地を暫く歩いてゆくと、野路一里塚碑があり、その先に旅人ののどを潤していたという右の写真の「萩の玉川」跡がありました。



(草津宿街道交流館)














(「萩の玉川」跡)


旧街道は、右の写真の弁天池を右手に見ながら、有名な瀬田の唐橋を目指します!

松尾芭蕉も詠み、「
近江八景 瀬田の夕照(せきしょう)」として昔から有名な瀬田の唐橋です。

瀬田の唐橋、豊橋(2011.12.12:吉田宿)、
矢作(やはぎ)橋(2011.12.30:岡崎宿)が、
東海道
三大大橋です。

写真の瀬田の唐橋は、一人旅の時は工事中で、橋の欄干は見えませんでしたが、バス旅行の時は、修理が終了していて、下の写真の様に、バスの車窓から真新しい姿の欄干を見ることが出来ました。








フェイタスZの効果が薄れはじめたのでしょうか、
膝の痛みひどくなってきました。

瀬田の唐橋の公園で一休みして、膝痛の回復を待ちます。

瀬田の唐橋を渡ると、賑やかな商店街に入りました。

京阪電車・JR線の石山駅をを過ぎて、暫く歩くと、膳所(ぜぜ)の城下町に入ります。

城下町特有の折れ曲がった道を進みます。

間もなく、大津宿の入口、膝の痛みで、本日はここまでが限界です。


草津宿から大津宿まで約14キロです。






一人旅のときは、瀬田の唐橋は、残念ながら塗り替え中で、上の写真の様に緑のビニールシートで覆われていました。

橋は、近年、建て替えられましたが、橋の擬宝珠(ぎぼし)は、歴代受け継がれ、昔のままだそうです。

そこで、擬宝珠だけでも見たいと思い、近づきましたが、擬宝珠も塗り替え中で見ることが出来ませんでした。


















51:  石部 へ

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